照井藤雄さん(故人)は千早2丁目に戦前からお住まいだった方で、郷土の資料や思い出話をまとめ、残しておられました。以下はその抜粋です。(固有名詞の一部をぼやかしました)
昭和初期の地名は西向(にしむかい)
我が家の新築の頃(昭和8年)頃は『西向』という地名であつたと聞いている。
☆豊島区資料(教育委員会発行 長崎物語)の7頁には『武蔵』『江戸』の絵図と思われる『武江略図』が載っており、既に「鼠山」なる地名と共に「長崎村」の記載がある。後に 東京府北豊島郡長崎村となったとされている。
☆私の記憶では、その後長崎仲町に。以来、千早町・千早へと町名は変わった。
☆昔の長崎村の字は豊島区資料(長崎村物語)によれば次のとおり。
長崎村の字名を 現在の地名に直してみると、おおよそ( )のとおりとなる。
荒井(目白5丁目) 大和田(南長崎1∼3,4丁目)
五郎窪(南長崎4,5∼6丁目) 西向(千早2∼3丁目・長崎2∼3丁目)
並木(長崎1丁目・西池袋4丁目) 西原(千早3丁目・長崎4∼5丁目)
水道向(長崎6丁目・千早4丁目) 北原(千早4丁目)
地蔵堂(千早1丁目) 北荒井(要町1∼2丁目・高松1∼2丁目)
境窪(千川1∼ 2丁目・要町3丁目) 高松(高松3丁目)
前高松(高松2丁目)
思い出されることなど
♣兵隊の演習 29~34番地
「幼い記憶では、天神森(34番地にあった森)の林を挟んで、千早3丁目川から我が家の南側を経て千早公園、更に谷端川近くの湿地までの一帯は、草地に覆われ兵隊の匍匐前進には公的な地形であったのか、陸軍の通信隊が背嚢と通信ケーブル(コードリール)や通信機器を背負って演習をしていた」。
♣人魂かと... 29・39番地
「昭和20年頃と記憶するが、私は昼間は恵比寿の海軍技術研究所に軍属として勤務し 夕方からは渋谷の中学(夜学)に通って、ハラペコ・ヘトヘトでもう間近に家がという谷端川近くで、いきなり人魂に出会った。やや黄色みを帯びた青い火の玉、目の前をフワフワと踊るように横切り、一瞬何事かと立ち止まってしまい、火の玉の行方をじっと目で追った。なんと目の前を過ぎたのは蛍であった 多分谷端川あたりで羽化したものと思う」。
♣昔のバス通りは
「ちなみにその頃の池袋から復路の乗り物は、今のイサミヤの手前、太田肉店・立ち食い蕎麦店辺りまでがバスで、そこから家までが歩きだった。その頃の祥雲寺坂下からイサミヤ前までの路はとても狭く、池袋 (今の北□辺) を出たバスは二又交番からの道を左にとり、立教大学前を通って地蔵堂で右折、イサミヤ近くが終点となり、バスはここで転車台ならぬターンテーブルに車体を乗せ、前後を変換して折り返し池袋への出発となった」。
「何時頃からか(戦時強制疎開によるのか?)坂下からの道が拡幅され、今の経路で千川まで通ることになったが、今のような広い通り(美濃辺都政で拡幅) ではなく、ハナぺチャバスの擦れ違いがやっとであつた」。
「終戦後暫くのバスの燃料は薪や木炭で、大きな茶筒のような窯を後ろに背負ってヤッコラヤッコラ走つたもので、エンコはしょっちゅう。その度に客を降ろして押させる始末。 特に若い人は必ずご指名?幸に祥雲寺あたりまで来てのエンコだと、チョット押すだけでカカッタゾの合図。急いで飛び乗り、後は坂道で惰力がつきイサミヤ前までは元気に走ってくれた」。
♣昆布緬工場 34番地の西側 (千早3丁目)
「これも記憶が不確かだが、食料不足の時代に昆布緬製造工場があり、小売りもあったので買って食べた記憶があるが、何やらでん粉質は殆んど含んでいない。多分、コンニャクと昆布のみが原料と思われる緬だった。味なし歯ごたえありの腹持ち食料だった」。
「後にヤクルトの工場となったが、火災で消失。今は協和電設の資材置場になっている」。
♣富士山を遠望 35番地と西側
「一面の野原で我が家から小学校まで遮る物はなく、冬空など空気の澄んだ日には富士山が遠望できた。後に35番地の野原全域は38番地の釣り堀の奥に住んでいたSさんが耕地として一帯を支配していた(土地所有者は南長崎の岩崎家と思う)」。
♣濁流滔々 33・36番地
「この辺の道路は全て僅かに砂利が敷かれただけで、荷車・馬車等の轍以外は草ボーボー。当然今のような下水溝等は無く、家庭の排水は自然浸透で殆どが敷地内の地中に吸い込まれ、道路の南側には普段は水が流れていない浅い空堀があり、大雨でも降ると濁流逆巻く流れに変った。私の親父は狩猟・漁に長けていて、潮干狩りに一緒に行った人曰く 『照丼さんは両手両足で砂の中の浅利を探りー度に四個捕るので、とても太刀打ちできない』と言われたという」。
「こんな親父なので、大雨で豊島園のボート池が溢れたと聞くと居ても立つてもいられず、出勤前の早朝、投網を自転車に積んで石神井川で一打ち。捕ってきた鯉・鯰・鮒等は多過ぎて掃け切れず、大雨で濁流滔々の家の前の堀を板で作った堰で流れを止め、その中に魚を泳がせ、私等子供達も使って知り合い等に魚配りをさせたものである」。
♣富士山がクッキリ 36番地∼
「我が家がこの地に借地し移り住んだのは昭和8年。当時私は4歳。小学校入学は長崎第2尋常小学校(現要小学校)で、3年からは 新設校の長崎第五尋常 (千早小学校) に転校した。当時は我が家から小学校まで見渡す限りの野原で、天候の良い日、特に冬の晴れた日には、西方遥かに雪化粧した富士の山がクッキリと姿を見せていた」。(後略)
♣シグノハヤダナ 36番地の北側 (東半分)
「天神森のKさんの耕地で、現Hさん宅辺りは長崎名物と言われた茄子やキュウリ・カボチャ等の果菜類を、現Yさん宅の辺りは薩摩芋等が作られていて、お盆になると天秤棒の両端に竹籠を吊し、借地人宅に野菜を配り歩いてくれたものである」。
(中略)
「天神森のKさんは温和・実直な人で、後年はまさに好好爺そのもの。清瀬の療養所から奇跡的に帰ってきた私の親父とはよく気が合い、足しげく我が家に来て話し込んでいた。小春日和のような暖かい日と思うが、二人して縁側に腰掛け、お茶をすすりながら日向ボッコ。Kさん曰く『シグ (死ぬ)ノハヤダナ ヤカレルト アツインダロ一ナ』の一言。思い出す言葉である」。
♣童謡歌手 37番地
「現在の元井メッキエ場の所にはKさんというお宅があり、我が家の妹の誰かとほぼ同年の可愛いお嬢さんがいたが、幼い頃には舌がうまく回らず、どうしてもクリームという言葉が言えず、クムーリクムーリと言っていたのが記憶に残っている。またこの番地の東北端は、近藤さんというお宅でお嬢さん(圭子さん)は童謡歌手であつた」。
♣藁葺き屋根の家 38番地
「天神森のKさん宅(我が家の地主さん)は、この辺―帯の他の農家と同様に藁葺き屋根の母屋と南側の大きな物置、東側には夏には西瓜を吊して冷やした釣瓶丼戸等があり、あたりは冬から春にかけて長崎名物と言われたという茄子・トマト・キュウリ・薩摩芋等の苗床ができ、そよ風に欅の落ち葉がカサコソと音を立てる、日向ボッコに最適の場所でもあった」。
「東側の一段下がる辺りに青桐の並木があって、手頃の枝を盗み切りし、手元を残して皮を剥き、遊び道具の刀にしたものである」。
♣チンチン屋の菓子 41 番地
「この近辺には食物屋らしきものは何軒もなく、子供達にはチンチン屋 (髭を生やした 元?路面電車の運転手の店) で菓子を買う位が楽しみであつたが、お互いに豊な生活ではないので、小銭の銅貨を握り締めて行き、2銭の新高キャラメルを買う程度。店に並ぶ菓子類の種類もあまり多くなく、弟妹の分を買ってきたのか、飴玉やウエファース・タマゴポーロ等が取っ手付きのアルミの丸蓋で大きな球形のガラス容器に入っていたのを覚えている」。
「この地番の南側には今の図書館辺りから?谷端川方向にやや幅広・深さもある空堀があって、覚えに間違いがなければ、今の軽トラよりやや大きめの消防車が演習の途中脱輪してこの空堀に嵌まってしまい、ひと騒ぎしたことがある」。
「この辺の東西に走る堀(溝)は大雨の降った時の排水が目的か、数多く有ったようだが、今の長崎3丁目24番地(観音堂の南)辺りから同2丁目24番地の不動湯の脇を通る堀は、他より幅広で絶えず水も流れていたように思う(現在は暗渠か?)」。
「41番地で思い出すことのもう一つは、他の地域にも共通する慣習だろうか、葬儀に際しては亡き人への供養の―環なのか、集落の子供達に菓子等を振る舞う風習があり、何処かのお宅で葬儀があると聞きつけたガキドモが、振る舞い菓子にありつこうと集まり、私も紙包みの何かをもらった記憶がある」。
♣メジロ捕り 43番地
「ここの墓地は田島家 (Kさん) 先祖代々の墓地で、回りは鬱蒼とした木立ちで昼なお暗しという感じで、夏の夜等は子供達で度胸試しをしたり、トリモチを塗った篠竹で メジロ (今は捕獲禁上の小鳥) を捕ったりしたものである。トリモチを塗った篠竹に止まった小鳥がクルッと回って逆さになり、飛び立つまでの瞬時につかまえに走ったものであつた」。
♣トンボ捕り 44・43番地
「今の図書館と社会教育会館の場所は、間の道路より南北共にやや小高い地形でトンボ捕りの待ち伏せに格好の場所で、シーズンの特に夕間暮れ近くになると、キンヤンマ ・ギンヤンマが大挙して北から南に向かつて飛来するので、子供達はこの道にしやがみこんで、(姿を低くして)トリモチを塗った竹竿を振り回したものである」。